無題
「逃げたぞ!追え!」
「…フン…傷は浅くない。
近くにいる筈だ…放置しても死ぬだろうが、“首”を持ち帰らなければならんからな。逃がすなよ」
「ハッ!」
「ゥ…ッ、はぁ…」
まさか、あんなにも簡単に懐に入られてしまうなんて
「…、…」
つい前まで有利に戦えていたのに
荒く息をつき、深手を負う体をかばう様にして足を引きずりながら、王子は人目を避けつつ下りていく
そして辿り着いたのは、城の最も深い場所
辺りを見回し誰もいない事を確認すると、隠される様に壁と同化していた重い扉を渾身の力を込め、押し開いた
その先は、絶対に立ち入ってはならないとされていた場所
“そこには最後の希望がある”
そう彼は聞いていた。
これに掛けるしか、もう生きる術は残されていないだろう。
“もし、どうする事も出来ない状況になったら。其処へ行くのです”
彼女は感情をこめる事なくただ淡々と
“そこには最後の…希望、があります。でもそれをどう受け止めるかは、貴方次第…”
──…ボタタッ
「!ぐ、」
力んだが故に腹から溢れ出る鮮血
痛みと酷い疲労感に顔を歪め、王子は力を振り絞り扉を閉ざした
「はぁ…はぁ」
ひんやりとしていた空気が、その部屋には及んでいない様だった
軋むような音を立てる扉に空間が閉ざされると
徐々に仄かな灯りが部屋の様子を照らしだし
「…!!」
そして大きく見開いた彼の目に映ったのは、部屋の中心に置かれた寝台に横たわる
銀色、の
「…お、じ…!」
血にまみれた王子…いや、ロイはかすれた声でそう音をつむぐと、もう自由のきかぬ己の体に鞭打ちよろよろとその側へ近寄った
「す…、ま…ねぇ…」
温室育ちの甘ちゃん王子さまがやるより、オレがやった方がずっとうまくいくに決まってる
それに
憎むべき貴族の最も上、王族である綺麗なアンタを、そこから叩き落として
貶めてやりたかった
そんな馬鹿みたいな理由で
中途半端な気持ちで。
“代わってやるよ”
その言葉に一瞬だが苦しげに眉を寄せた王子さんの隙を、オレは見逃さなかった
未だ、意識の戻らない彼の手に触れようとして、己の手が血にまみれている事に気付く
「…間違…て、たんだ…な」
甘ちゃんだったのは、オレ、だ
取り返しのつかない事をしてしまった
アンタはあんなにも多くの人から信頼され好かれて
必死にあいつらと戦っていたのに
事情を分かろうともせずオレはそれを、潰したに等しい
(なんて、浅はかだったのだろう)
今更になって、後悔と恐怖とが大きくのしかかって来て
息も出来ず
酷く体が震え
目の前が真っ暗になった
「……オレ、は…」
どうすれば良い?
どうすれば…
“最後の希望”
という言葉が再度脳裏をよぎる
それは、この隠された空間で目覚めを待つ王子さんの事に間違いなくて
“どう受け止めるかは、あなた次第”
希望は?
(…希望は、守らなきゃならない)
「…、そっか…」
そうだよ
アンタが希望なら
話は簡単だ
オレがやるべき事は、一つ
それも、オレにしか出来ないことだ
すげぇな、オレにしか、出来ない事だとよ
(こんなオレにも、役に立つ部分があったんだな)
…これで、アンタに道を返せる
(そして、これ以外に贖罪の方法は無いだろう)
金眼の王子はくく、と王子らしからぬ笑みをもらした
「は…なんで…もっと早く気付か、…なかった……くッ」
気を抜いたら崩折れてしまうだろう消耗しきった体
しかし、此処で落ちる訳には行かないと、朦朧とする意識をかき集めてロイは立ち上がった。
そして徐に懐から取り出したのは、黄色いスカーフ…孤児であった彼が唯一持っていた、両親の形見。
彼にとって特別な御守りであるそれを、眠り続ける王子の左腕へと結び付けた。
(それには止むを得ぬ事情で我が子を手放すに到った両親の願いが、掛けられているのかもしれない)
「やるよ…オレにはもう…必要ねぇから」
(それともオレは、両親がそう願ってくれた事を願っていたのか)
アンタは、皆の希望だ
アンタが生きてさえいれば、この国の、人々の未来には希望がある
「もうちょい休んだらよ…戻って来いよ」
オレは、命を捧げる
だから、だからよ
「生きてくれ」
寝台から踵を返し、力強く歩き始めた金眼の王子の瞳にはもう絶望も迷いもなく
決意に満ちていた
暫くの後。
勝利の証である“首”が大きく掲げ上げられ
城を蹂躙する兵士たちの荒々しい雄叫びが響きわたった
その時、まるで
“彼”と入れ代わる様にして
蒼眼の王子は
“──…!”
一筋の涙と共に覚醒する
それからそう遠くない未来
真の紋章を抱き
軍を率いる蒼眼の王子によって
全ては奪還される事となる
そのスカーフは常に王子の傍らにあり
彼もまたそれを片時も離す事はなかったという
2006/7/3